東京、葛飾・亀有で少林寺拳法 〜 金剛禅総本山少林寺 亀有道院・葛飾西道院

少林寺拳法の沿革と歴史

宗 道臣 人づくりの軌跡

1911年

岡山県作東町(現・美作市)の山村に生まれる。
物心つくころ、義父は、仕事がうまくいかなくなり、母に暴力を振るった。「何とか助けたいが、力も知恵もなければ、悔しい思いをするしかない。母や妹をどんなに愛しても、力がなければ何もできない」ことを痛感する。



1919年

義父の死。母が一人で家計を支え、ますます生活が苦しくなる。

宗道臣は母親に代わって、家の手伝いとともに二人の妹の面倒

を見るようになる。当時の宗道臣は、体こそ大きかったものの、

気が優しく、女の子のようだったという。


1922年

11歳のとき、村の有力者の息子が乳母車を倒す現場に遭遇する。家に帰ると有力者がどなり込んできて、犯人の濡れ衣を着せられた。宗道臣は、薪を片手に村の有力者の息子である真犯人に迫り、濡れ衣を晴らす。内気でおとなしい子どもであった宗道臣に“正義感”の芽生えた瞬間であった。



1925年

貧困家庭の実状を子ども心に感じ取り、2年前に続く二度目の

家出。一度目は失敗したものの、二度目は成功し、中国東北部

(旧満州)に住む祖父の元へ。

祖父 は、剣道、槍術、柔術に精通しており、宗道臣と武道の初

めての出会いであった。「親の仇だと思って掛かってこい!」

という祖父の指導は大変厳しいものだっ た。


1927年

前年に母と下の妹、そしてこの年に上の妹と祖父が亡くなり、

天涯孤独となる。家族への思いが人一倍強かった宗道臣に、

妹たちの死は強烈な無力感となって襲ってきた。


1928年

中国大陸にて特務機関に従事。各地を訪れる道中で、陳良老師をはじめ各派の老師と出会い、武術を学んでいった。



1930年

帰国し、各務原にある飛行隊に入隊。しかし、翌1931(昭和6)

年、心臓弁膜症と診断され除隊。当時、心臓弁膜症と診断され

た者の大半が1年以内に死亡 していた。三度、中国に渡り、

特務機関員として従事。宗道臣は、自暴自棄になり、自ら危険

な仕事を買って出る。そんな姿を見た陳良老師が、「お前が一

年以 内に死ぬとは誰が決めた。天命は、人間の計り知ることの

できぬ妙理である。生きている間は死にはせぬ」と説かれ、

"自ら死のうとすること"の愚かさを悟っ た。

「生きている間は死にはせぬ」は、終生変わらぬ宗道臣の

死生観”となった。


1936年

宗道臣が嵩山少林寺を訪れた際、白衣殿(=観音殿)の壁画に描かれる、インド人僧侶と中国人僧侶が楽しそうに拳技を修練している姿に衝撃を受ける。「相手 を敵だと思え」という考え方の対極にあるものだった。このインスピレーションが、仲間と共に高め合う少林寺拳法の修行法の原点となった。



1945年

ソ連軍政下の中国東北部で敗戦を迎える。民間の日本人を見捨て、いち早く遁走した関東軍。翌年、日本へ引き揚げる際に目撃した人間の赤裸々な行動を目の当たりにし、翻って、法律も軍事も政治のあり方も、リーダーとなる“人の質”にあることを悟る。帰国後、志のある青少年を集め、道を説いて祖国復興に役立つ人間を育てようと決意する。ただし、暴力が横行していた当時の若者は理想論だけでは付いてこなかった。



1947年

香川県多度津町において、自宅を改造して、少林寺拳法を創始。少林寺拳法師家となる。「社会に役立つ人づくり」を目的とした“教育システム”を考案し、そ れまで学んだ武道・武術を整理して編み出した“技法”をもとに、自身の世界観や人としてのあり方などの“教え”を説き始める。正義感(判断力)を引き出 し、自信と勇気と行動力(強さ)、さらには慈悲心(思いやり、優しさ)をもった人間を一人でも多く育てることで、平和で豊かな社会の実現を願って行動し続 けた。
宗道臣逝去後は、娘である宗由貴が第二世師家となり、「社会に役立つ人づくり」という宗道臣の志をもとに活動を続けている。



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